YOSAKOI?
やー。バカ工業です。
わが町札幌では明日からYOSAKOIソーランが始まります。
大通のメイン会場ではステージが組まれている最中でした。
不透明な運営は相変わらずですが、今年は不況の折参加チームが減少しているという話ですが・・・
単に「不況」が原因ではないような気もしています。
特に参加者の負担増は札幌から離れるにしたがって大きくなり、コンテストの色合いが強くなるにつれて金銭的な負担増に加え、時間的・精神的な負担がかなりの部分増加しているような印象です。
恥ずかしながら私が大学時代に参加した期間でも、たまたまスポンサー様がついてくださっていたからよかったようなものの、それでも時間的・精神的負担はあり、
さながら一昔前の体育会系のしごきがここで生きていたのか!と驚いたのをよく覚えています。
演舞することによって自己欲求のみが充足されることは、今から考えると恥ずかしい限りです。
演舞の後踊り子がいう「ありがとうございました」は一体誰に対してのものなのか。
そこに思いが及ばなかった私・・・恐るべきYOSAKOIソーラン脳ですね(汗)
すべての人に愛される必要はないと思うんです。そんなこと無理なんですから。
ただ、YOSAKOIソーランに(いろいろな形で)携わることですべてが許されると勘違いしているような気がしています。
大通公園沿いの会社は、仕事に支障が生じています。
知り合いの会社はYOSAKOIのポスターを貼ってありますが、事務局らしき人間が貼ってくれて当然というような態度でポスターを持ってきていました。
ひでーっ、と言ったら、毎年のことなんだそうです。
ファイナル後打ち上げをやるのもいいですが、
羽目をはずし、飲みすぎてトイレにこもりきりになったり、居酒屋の他のお客様に迷惑をかけることだけは本当にやめたほうがいいと思います。特に学生チームの諸君。
他にもあまりに拝金主義に走る本部組織などいろんなことがあるでしょうが、とりあえずここまで。
あと、
「和」の心と言いながら、振り付けを作るのが和の心なんかまったくないジャズダンススクールの講師というのはいかがなものなんでしょうか。(一部チーム)
まあ札幌のジャズダンス関係者はこれで食えている人もいるみたいなので、ここら辺にしておきます。
議会見学
用事が早く終わったことから、せっかくだからと議会見学へ。
東村山のことをみるのもいいけど自分が有権者であるわが町の議会も見ておかないとね。
今日は定例会の代表質問最終日。
少数の会派2つの代表者による質問。
2つ目の会派は委員会においても徹底的に追求をする会派なので(議員の仕事をきちんとしているとも評価されているけど)途中市長などとのやり取りでも見解の相違でやりあう場面もあったが、
(今までの市長のイメージからすると、感情を露にするのは珍しい)非常に内容のある審議がなされて無事に終了。
審議が終了してつくづく思ったこと。
草の根ネットがうちの自治体の議会議員じゃなくて本当によかった。
そんなことを思いながら帰路に着きました。夕焼けがきれいでした。
あ、やー。バカ工業です。
議員年金
そういえば矢野穂積市議も朝木直子市議もこの任期を満了すると議員年金の受給資格が発生するんですね。
なんか・・・癪だw
矢野市議は自身のHPにてその主張のひとつに「地方議員年金の廃止」を掲げていますが、自身が受給資格を得た場合にどうするんだろう・・・怪しい・・・。
ちなみに「政務調査費」を1円も使っていない、というのは、穿った見方をすれば”地方議会議員としての政策立案の研究”をしているのかどうか疑念を抱くものです。(あくまでも正規の目的における使用を前提にしています)
本当に「有権者の負託を受けた」議員たる政治活動をしているんだろうか。「政治」の意味を取り違えてはいないだろか。
拝啓
やー。バカ工業です。
中村克『最後のパレード』の盗作疑惑。
昨日読売新聞に続報が出たりと、著作権に抵触する部分については著者・出版社ともに瀕死の状態なのではないか、そう法律の素人は思うのですが、
この問題を見るたびに、著者とセットになって出てくる東村山市議の会派「草の根ネット」と会派所属議員が発行する「東村山市民新聞」。
前エントリで”「東村山市民新聞」と某新聞の「寸鉄」が同じスタイル”という趣旨の印象を抱いたことを記しましたが、ブログ等で「草の根ネット」の市議会内外での、筆舌に尽くしがたいほどの暴虐ぶりというものを見るにつけ、
広く東村山市民が被る不利益に同情するとともに、この問題について長きに渡り取り組み、またヲチされてこられた関係各位のご尽力に改めて敬意を払うしだいです。
さて。
誰とはいいません、これは私だけではないと思いますが、少なくとも私の目から見れば「議員適格」のまったくない人であっても、現在「市議」という立場である以上、その立場を利して何かしらの所業を働いているわけです。
議員であるということは選挙で当選して初めて名乗ることができる「地位」です。
当然東村山市でも、現市議会議員は2011年4月30日までという任期があります。
地方議会議員は名誉的な職階という見方でこれまできていましたが、昨今の地方自治体の財政難に伴い、議会への目もこれまでよりもいっそう厳しく、大都市圏では議員の諸経費について疑問を呈す報道もなされるようになりました。
枕が長くなってしまいましたが、そこで、です。
議会監視のためのオンブズマン(日本的な「市民オンブズマン」組織)を、東村山で結成してはいかがでしょう。
「東村山オンブズマン」という名称の任意団体があるようですが、「東村山オンブズマン」の連絡先が「東村山市民新聞」となっており、「東村山市民新聞」の発行人が、現東村山市議の矢野穂積氏となっています。これはオンブズマンとしての公平性に著しく欠けるものであるため、オンブズマンとしての機能を果たすに十分ではありません。
また、インターネット上で「草の根ネット」の市政に対する活動の矛盾および意見をいくら表明したとしても、「草の根ネット」の支持層にはどうやら届かないようです。
そこで東村山で市民オンブズマンを立ち上げ、議会監視をすることで、議員の活動というものがもう少し透明性を帯びてくるのではないか、と思うわけです。
もちろんこれは「草の根ネット」へのネガティブキャンペーンではありません。そんな瑣末なことを考えているわけではありません。
あくまでも行政である東村山市の姿勢を見ていくとともに、議会議員の皆さんの活動を広く市民に伝え、日常の議会議員の活動やそれに対する支出を第三者であるオンブズマンが評価するとともに、その評価をへることで、議会議員への信頼というものが一層向上にもなると思います。
個人的には河村たかし・現名古屋市長が「地方議員はボランティアでいい」という考え方にはある意味賛成ではありますが、地方分権を標榜するならば、東村山のような規模の都市において、市議会議員の果たす役割というものはいっそう重要度を増すように思います。
より専門性を増した、より高度な資質を市議会議員には求められていくことになるでしょう。
その「議員適格」があるかどうか。
個人的な資質も関係してはくると思いますが、その議員が何をしてきたのか、何をしようとしているのか、「政治家として適格であるかどうか」要素について、もう少しドライに取り組んでも面白いかなと考えています。
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※時間の関係上推敲等を経てはおりません。文意において不明な点がありましたら、それは筆者の筆力不足によるものです。また上記と同様の活動をされている諸団体様がありましたら、私の無知故のことです。申し訳ございません。
遠くの地から東村山を覗き見る
やー。バカ工業です。
最近話題の中村克氏(著作権法もどこ吹く風の「知財作家」)を野次馬根性で追うとどうしても行き着いてしまう東村山「市議」。
市議の中にはちゃんとしている人もいることはいるんだろうが、粘着質かつ意味不明な毒を吐き散らす「草の根」(そんな種の草があるのかよ)が目立ってしようがない。
こんなひとが連続当選しているなんて有権者の責任は重いな、と思いながら、一方で東村山を思って政治活動をされている東村山市議や一部自治体関係者への同情を禁じえません。
著者である中村氏と出版したサンクチュアリパブリッシングの原著作者に対する思慮のなさやその責任の重さは私のような法律素人が言及するまでもなく、「はよ著作権者が何からのアクションを起こさないと逆にそちらのイメージがダウンするんじゃないですか?(当事者の一団体は投稿者に対して「著作権は○○に帰属します」としてるわけだし。)」と老爺心ながら申し上げたいのですが。
まあそれは専門家にお任せするとして。
細かいことながら気になってしまうのが、「草の根」関係者が出す「東村山市民新聞」。(リンクフリーかどうかわからないので、検索してご覧ください。ご覧になり気分が悪くなられても当方は一切責任を持ちません)
読みにくいわ、論理は矛盾するどころか破綻している文章を読む(これは中村氏のブログも同様。ついでにいえばターザン山本も同種)ことは、苦行以外のなにものでもありません。東村山を思い東村山問題を扱うみなさんに対して尊敬を抱かずにはいられません。
そういう野次馬丸出しの私が文章をたどっていっているうちに感じた個人的感想。
・・・「東村山市民新聞」の文体って某新聞の「寸鉄」っぽくね?
あ、や、私、その新聞購読してるわけじゃないですよ?ソッカーでもないですよ?某団体さん、個人攻撃はやめてね。
直観的直感的な感想ですから名誉を毀損する意思もないですよ(中村克氏の法理論ではなんら問題ない・・・中村氏の論に拠らなくてもセーフだよね)
某匿名ネット族が集うとされる掲示板でたまに見る(決して読めない)程度なんですが、なんか似てるなーって。雰囲気やリズムが。
もっとも字数制限のない「東村山市民新聞」のほうが粘着度はひどいことにはなっていますが。
なんかどこかでつながってたりして・・・おーきもっ(筆者注:個人の体調によるものです)。
あと
「草の根」の選挙公報もどこかで拝見しましたが
「斗う」って新左翼や全共闘世代の加齢臭が・・・個人的に吐き気(筆者注:これまた個人的な体調に起因)。
なんか「斗う」ことでしかアイデンティティを確立できない=相対的な存在でしかないように見えるんだよな。
その残党が雨宮かりん(ってへんかんできねーよ)処凛なのか?
あ、小熊英二氏の新著、予約しとこ。小熊氏はリスクマネージメントもできているだろうし。無銭飲食は・・・してないよね?
NPOという名の印籠
やー。バカ工業です。
先日イオンで行われている「幸せの黄色いレシートキャンペーン」の贈呈式に出席してきました。
代理出席と言うこともあり、どんな雰囲気なのか想像もできないままに珍しくスーツを着ていきましたところ、立地によるのかスポーツ少年団の親御さんが多く、華やかな雰囲気でした。
その中にも名だたるNPO法人の方もいたりして、団体の自己紹介でも崇高な理念を述べていらっしゃる方もいらっしゃいました。
そんな中で粛々と贈呈式は進行。ちょっと早く終わったので「ご歓談を」と。まではよかったのですが。
隣にいたNPO法人の女史がイオンの副支店長氏に「今回の贈呈式での最高額はいくらだったのですか?団体名は伏せたままでいいですから」と聞いたわけです。
ちょっと渋っていた副支店長、するともうひとりの女史が「ほら、金額を知ればみなさんの励みにもなるじゃないですか」と。
さすがですね。相手の表情を見逃さずに二の矢を的確に放つその老獪さ。
すると副支店長、最高額とその団体を二人の女史に話してしまう。「あーあ」と思った瞬間、今度は会場全体に向かって最高額のみを話してしまったときたもんだ。
ざわめく会場。そうだよね、子どもたちの活動資金のために、毎月11日にイオンで買い物をし、レシートを自分たちの団体へ投函し、それで得てきた金額。
副支店長が公表した額と自分たちが受け取った額との差を考えると、絶対的ともいえる差がありましょうから。
最高額を受け取った団体のほうに目をやると、みなさんなんともいえない表情を見せています。
口車に乗せられて額をいってしまった副支店長にも問題はあるでしょうけど、私はそのあとの二人の女史にあきれてしまいました。
「さすがだよね、○○さん。」「まああそこはうまくやってるから。」
その後始まるは団体内での資金運用の困難さをお互いに慰めあう。
うーん。NPOってなんなんだろうか。
もちろん濁りなき水の流れのような理念を基にした運営と言うのは無理です。
女史のおひとりが所属される団体が、札幌市や札幌市福祉協議会とタッグを組んで、といいながら、半分食い物にして利ざやを稼いでいる、ということにたいして、揶揄するつもりもありません。
ただそこで私は、「自分たちは崇高な理念を持って運営している、その理念に共感して当然でしょう」的なことを、NPOという印籠を用いて押し付けているような感じを受けたのです。
もっと言えば、「最高額はあそこの団体になったけど、あそこはさまざまな機関が関与してる、うちの団体はNPO、社会貢献を第一にした理念を掲げ、しかも単独で行っている、だからもっとお金をもらったって当然」、そんな感じがしました。穿った見方、と言えば穿った見方ですが。
NPO法人だからと言って、NPO法に基づいた運営の範疇において収益を上げることに対してなんら批判をされるべきではありません。
ただ、団体側がその行為においてNPOと言う印籠を使い、いらぬところでヒエラルキーを構築しようとしていないだろうか、ちょっと気になっているところです。
遅れましたが、イオン平岡ショッピングセンターにておよそ190000円分のレシートを弊団体に投じてくださった方、この場を借りてお礼申し上げます。
できるだけケアしたいもの
バカ工業です。やー。
キム・ヒョンヒ氏(”元死刑囚”という称号はどうかと思うんだが)を特集していた「サンデー・モーニング」で、「南北問題」「南北統一」という話題から思ったこと。
朝鮮半島とほぼ同時期で冷戦の影響を強く受け、やがて統一に到っている「ベトナム」はどうなんだろうと。
「ベトナム」ばかりをフォローアップしていることはできないし、こんな片手間のことで理解した気になることもないが、なるべく注意深く接していこう。
暴力的な?「平和運動」3(承前)
やー。バカ工業です。
—
昨年末、イスラエルのガザ地区への爆撃は記憶に新しいところであると思われます。
日本でも各地で反対を表明する運動が展開され、それは数ヶ月たった現在でも継続しているようです。
現地を見ているわけでもなく、またきちんとしたフォローができているわけでもない私がコメントすることなどできるはずもない大きな問題ではあります。
日本での運動はイスラエルの不当な侵攻に対して強く抗議するものが多く見られます。
国連決議や中東戦争の経緯、アメリカの介入等、ガザ地区・西岸地区のイスラエルの「占領」状態というものが今日の惨劇を引き起こしているという主張は、首肯するところはあります。
ただ、このたびのイスラエル侵攻におけるイスラエル側の理由「ハマースのロケット弾攻撃」に対する、ハマース側擁護に立つ運動関係者の反駁には、私個人としては違和感を抱かずにいられません。
イスラエルの占領状態に対する抗議の意思(岡真理・京都大学准教授)
という主張は、当事者ではない立場の方の発言としては苦しい感じもしますが、
ハマースのロケット弾(カッサムロケット)は近代兵器というには程遠いもの(命中率は500発に1発)(MLより。主張者は不明)
であって、近代兵器で爆撃を続けるイスラエルの「懲罰」の意味を考えるべき、とするのは、「平和運動」を標榜する方としていかがなものであるかと考えます。
仮に岡准教授の主張に沿い、ハマースのロケット弾攻撃を「正当防衛」とするならば、イスラエル側の行為がどの程度である必要があるのか(「日常的な不法占領状態」という要素に含むとして)を明示する必要があると思われます。パレスティナ人への「急迫不正の侵害」に対する防衛行為がどの程度まで許されるのか(ロケット弾攻撃は防衛行為として相当な行為とみなすことができるのか)ということを、聴衆に対してコメントするべきではないでしょうか。そのときに「手作りのカッサムロケット弾は500発に1発程度の命中率であり、イスラエルの近代兵器と比すればその行為は無きに等しい」的な主張がパレスティナ人の防衛行為の正当性を求める根拠として果たしてふさわしいのか、私はとても疑問です。
—
岡准教授の講演会がyou tubeにありましたので、拝見いたしました。
思いは伝わるものはありましたが、聴衆の情緒に訴えかけるような言葉の多さがとても気になりました。
状況説明はメディアが取り上げないところをフォローされており、現地にいけない・状況を把握し得ないものとして興味深く拝見させていただきましたが、状況描写とご自身の見解を混同してお話されるためなのか、「呪い」の言葉が透かしのように所々浮遊していると感じました。
「呪い」の言葉は暴力を再生産するしかありません。その「呪い」を受け取った聴衆は、まるでプロパガンダに煽動された民衆のように思考の余地を失います。
暴力的な?「平和運動」2(承前)
小林一朗氏の論文「CHANCE!が創る、平和運動の新しい波」(坂本龍一監修『非戦』(幻冬舎)所収)に、平和運動の拡大について
相手の認識の仕方に配慮し、ともに学びあう機会を作ることが大切なのだと思う
とし、価値観が問われるテーマでの活動をしていく中での不可欠な要素として
- 「内なる平和」
- 「何らかの具体的な行動に結び付ける」
- 「広がりをつくる」
を挙げています。
実際に上記の要素に十分配慮して活動されている団体もあるかとは思いますが、2,3の要素のみに着目し、1の要素を軽視ないしは無視して活動しているところも散見されます。
運動なり活動の(自身が想定する)結果ばかりに着目し、そのプロセスには十分なケアがなされていない。
もちろん小林氏の指摘が十分であるとはいえない可能性もあることに留意しておく必要はあります。
私個人としては、平和運動の結論というものは最初にあるべきものではなく、その思考の当面の結論として「態様としての平和」であるべきと考えます。
「平和という結論」を過剰に意識するあまりに、「平和」へのルートを検索し、より最短なものを求めてしまうのはどうなんだろう、と思うのです。
そのために外部の者には「平和」という概念を明確にするプロセスを経ることなく、「平和」を希求しているようにしか見えない。
最短のものを求めるからなのかジレンマからなのか、同じ「平和」を求めている人の間で何らかの相違点が見られると、それに対する言葉の暴力が始まる。(実行性を伴ったものが「内ゲバ」というものなのかも知れません)
個としての「内なる平和」のみならず、集団としての「内なる平和」がなされないままに運動が展開されていくことが、果たして「平和運動」といえるのか。私には違和感があるのです。
(もちろん「内なる平和」の「平和」というものの概念が問われますが、ここでは”相手との相違点を十分に認識した上で、共生していくための心の持ち様”と一応しておきます)
—
あ、挨拶を忘れていました。
やー。バカ工業です。
暴力的?な「平和運動」
やー。バカ工業です。
ノーマ・フィールドさんの講演会の翌日3月7日、「いまイスラエルを問う!」と題した講演会とデモ行進があったそうです。
そんな余裕もないのでお知らせだけいただいていたのですが、その報告がメールで送られてきました。
パレスティナ問題に詳しいフリージャーナリストの土井敏邦氏や中東イスラエル研究の臼杵陽氏の講演の後、デモ行進をしたそうなんですが。
集会後、障害者・非正規雇用の方々も合流し、「パレスチナに自由を!」「障害者・労働者の差別を許すな!」「アイヌ民族と連帯しよう!」「イスラエルとアメリカの横暴を許すな!」などと叫びながら雪の中をススキノまで80名がデモ行進しました。
あー。
「パレスチナに自由を」「イスラエルとアメリカの横暴を許すな!」はわかるんですよ。集会の表題にも直接的に関連するわけですし。
けど
「障害者・労働者の差別を許すな!」
「アイヌ民族と連帯しよう!」
これは「イスラエル―パレスティナ問題」とどの部分でリンクしているのでしょう。
「多数派による少数派の抑圧」という観点なのでしょうか。
ただ「少数派」とするには「パレスティナ」「アイヌ」「障害者」「労働者(派遣雇用のことをさしているのでしょうか?)」それぞれの構造というのは異なるものであり、一緒の文脈で語られる部分は無きに等しいはずです。(もちろん個々の要素では繋がる余地はあるかもしれませんが、上記のすべての要素を同じ文脈で語られる部分はないはずです)
ノーマ・フィールドさんの講演会でも思ったことではありますが、主催者側の恣意的な思惑が、他者への訴えという点において他者から拒絶される要因になっている、ということを自己反省しないのでしょうか。
そういう無神経さが私にとってはすごく気持ちの悪いものとなっています。
9.11にはじまるアメリカと中東との関係を「報復が報復を生む暴力の連鎖となっている」と評している方がいらっしゃいますが、あくまでも仮想敵と戦うことを前提とした「平和運動」ってなんなんでしょう。
抽象論に終始しても彼らと同じことになってしまうので、私がいまだに違和感を抱く部分について書き記しておきます。(知識の欠落した者が書き記していることに留意してください。説明や対話は歓迎しますが、論戦は好みませんので)
- 仮に「パレスティナ人」「アイヌ民族」「障害者」「労働者」が共通する要素をマイノリティと定義する場合、これらを同一に語れる文脈はどこに存在するのでしょうか。
- 集会とデモ行進の実施を「パレスティナへ連帯の意思表示ができた」と結んでいますが、デモ行進における「パレスティナ」に関連する要素は私には1つしか見当たらないのですが、そのほかの要素はどこに該当するのでしょうか。
- 「連帯への意思表示」はどこへ向けた意思表示なのでしょうか。
- 各市民団体その他の賛同があったということですが、その賛同は「イスラエルを問う」ことに向けられているのであって、「アイヌ民族」「障害者」「労働者」に向けられたものなのでしょうか。
このブログは検索エンジンに引っかかりにくいそうなので、まあ関係者が目にすることはめったにないかとは思いますが、一応コメント欄は開放しておきます。
「平和運動」を展開する方々が段々暴力的な言葉遣いになっていることに大変危惧しております。
言葉の暴力は次第に実行的な暴力行為に容易に転化しうることを一応指摘しておきます。